社長プロフィール
幼い頃、唐草模様の風呂敷を肩にしょって「夢もチボーもないよ」「いろいろあらあな」で一世を風靡した「東京ぼんた」さんのものまねで、みんなを笑わせていた様です。記憶の中には、みんなの笑顔と唐草模様が薄ら残っています。この頃から、人が喜んでくれる事、人が笑ってくれる事が大好きでした。
【将来の夢?】
親戚一族 女系の中で、唯一2人の男兄弟の長男に生まれました。将来が決まってるかのごとく育てられ、小学生3年生の「将来の夢」というテーマの作文には、「将来は、お父さんの後を継いで立派なこんにゃく屋の社長になる」と書きました。本当に成りたいか?と、言われれば…こうやって書けば両親が喜ぶだろう的な思いで書いた記憶があります。
両親は自営の共稼ぎ。会社は家から車で15分と離れていますので、常に弟と2人は野放しでした。毎日学校から帰ってくると黒電話の横に簡単な書置きと200円。弟と2人分。毎日それを握りしめ、駄菓子屋で王冠に当り付のチェリオを毎日飲んだ。暗くなるまで近所の子と遊んだ。真っ暗の誰もいない家に入っていくのが、とても怖かった。
中学、高校と部活はテニス部でした。自分でいうのもなんですが、根がまじめですから、部活は一生懸命やりました。と、いうより家に早く帰ると「手伝え!」父の一言が嫌でしたので、自然と練習に励みました。朝から晩まで勉強もそこそこに、練習しますから自分の力以上の成績が残せました。今でも仲良しの当時のメンバーに感謝しています。ありがとう。
【就職・仕事って楽しい】
高校を卒業し就職です。生まれた時から食品に囲まれた生活の中で、自然と食品関連を選びました。スーパーで塩鮭を切ったり、鰻を焼いたり…百貨店でギフト担当したり、ケーキを売ったり、豆腐を注文したり…20代は本当にいろんな事をやらせてもらいました。(今、その経験が役に立っている)
尊敬できる上司・先輩・信頼できる仲間たちに恵まれ「仕事が本当に楽しい毎日」を過ごした時代。「一生この仕事を続けてもいいな」と、思っていた矢先突然母が倒れました。
脳内出血で右半身の自由と言葉を失った母の看病と、会社の後継の為にサラリーマン生活に別れを告げ、現会社の門をくぐりました。会社に入って色んな事がありました。色んな事がありすぎて…。
2011年 春、代表取締役に就任しました。その1年半後、人生初の出来事が起きました。
【人生の岐路と言うべき出来事】
2012年11月5日17時30分すぎ発病。痛みも何もなく右半身の違和感を感じながら、会議中に倒れました。幸い周りの人達の手当てが早く、命は助けて頂きました。病名は母と同じ脳内出血です。母ほどの後遺症は残らなかったものの右手は全廃との診断です。
東京ぼんたさん風に言うならば「夢もチボーもないよ」ですね。
気丈に振る舞う妻と、何が起きたか理解できるかできないかの小さな子供2人を前に、いつか教えてもらった言葉が頭に浮かぶ。
「私の身に起こることは、すべて必然、必要」
【夢の遠い目標】
「腕の1本や2本 直ぐに動くようになる。長い冬休みを頂いただけ。今しかできない事を楽しんでやろう」落ち込むどころか、入院生活を大きな声でいえませんが、エンジョイしてました。(家族のみんな、従業員の皆さん、取引先の方、各種団体の皆さん本当にご迷惑をかけました。スミマセン。)
リハビリの先生に目標を聞かれて「病気の前よりスマートで柔軟なしなやかな体!それと、ゴルフ行きたいね!」と、リクエストしました。病は気からといいますが、まんざら「夢の遠い目標」ではなさそうです。現在、週2回のリハビリを欠かしませんが、数年経過した今でも少しずつ少しずつ、着実に回復しています。
ある時、スピリチュアルな能力のある方から言われました。
「中村さん!病気になったのは意味があって…今、何をしなければいけないのか。自分でわかっているはずだよね!」
すべて必然で必要なんだ…
【人を信頼し任せること】
体が少し不自由なので、社員を信頼し任せています。なかなか出来なかったんです。元気な時は…。その変わり「深く考える」ことが出来るようになりました。商品開発や新しい技術の研究、労務管理や神棚のお世話まで。日々のルーチンワークで時間が無くてできなかった事、こと…。確実に動き始めました。
弊社のポスターのコピーに『古くて新しい物を創っています』とあります。
こんにゃく、寒天、ところてん… 私共の先祖が残してくれた素晴らしい物を、残していく事、今の時代にあった形に変えていく事、それが私共(弊社)の志事です。
弊社の製品でお客様が、喜んでくれる事・笑ってくれる事・お役に立てる事が最大の喜びです。
※最近、夢ではなく目標がひとつ増えました…
右手で昔の様にテニスをする事です。 同じ病気の人達の為にも。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
1965年岐阜県生まれ、A型のおひつじ座。